2014/10/17

カボチャ

冬の適当な日に
カボチャを食べるという風説を聞いたことがあるが、
実際のところやったことがない。
年寄り力が足りないせいか、
カボチャをありがたがる感性ももっていない。

秋の入り口を通りすぎると、
街に張り出されているポスターや、
ショーウィンドーなんかでカボチャを見かけるが、
あのチンチクリンなカボチャは、食用なのだろうか?
というか、あのカボチャのお化けで怖がるという、
外国人のセンスも大概なものだろう。

昭和生まれの元お子さまたちに大人気であった
もったいないお化けは
大根や豆が化けて出ていたりした。
サンマを食べるときに
破砕された一部分がチマッとのっけられてたり、
藁に包んで放置しとくと糸を引く珍味に化ける
あの食材が化けて出るってのも、
なかなかの混沌っぷりでいい勝負だ。

だが、あのカボチャが徹底的に違うのは、その華やかさだ。
浦安にいるつがいのネズミと一緒にパレードに出たり、
イベントとかで仮装というわりには
露出の多い衣装を着ちゃってる女の子なんかと
一緒に浮かれたりできるのが西洋と東洋の圧倒的な差だ。
カボチャがもったいないお化けとして出てきても
こうはいかないだろう。

寺でおひつの回りに群がっているようなガキどもが
ちょっと怖がったりして、お昼寝の時に夢に見ちゃって
おねしょしちゃうぐらいのものだ。
土色や灰色、すこし鮮やかなところでも
菜っぱの緑ぐらいしかない、
ちょっとマイナスな意味合いでの
オーガニックな色合いが広がっている。
これじゃ、電飾や心踊るような音楽とは繋がりようがない。
まあ、お化けとしては正統なのだけれども。

唐突ではあるが、
西洋のカボチャが非食用として考察を進めてみると、
その特性はぶ厚い外皮を持つうすらでかい植物となる。
そうすると、バール的な、
工事現場とかで建造物を壊すためだけに作られたような、
荒々しい利器を用いることで、
パッカリと割ることができる。
もちろん、食物ではないので、
急遽日本国籍を取得しての
もったいないお化けへの転身なんてこともない。
非食用のカボチャであれば、関係ないのである。
もし、そういうカボチャが化けて出るのであれば、
芝生やペンペン草のお化けなんてのも出てきていいだろう。
植物のお化けなんかは、植物ホルモンをぶっかけて、
培地のうえに置いとけば、
体躯が保てず、細胞の塊になっちゃうようなやからだ。
もともと怖がる理由がないのだが、
ほんのちょっぴりでもあったかもしれない怖がる理由ですら
どっかにいってしまうようなやつらなのである。
とはいえ、培地の上で放っておくと増えるんで注意が必要だが。

仏教では輪廻という概念があり、
生まれ変わったら違う生き物になると考えられている。
お化けというぐらいで、
元にあったものが化けてでてきたものなのだから、
その元には命があっての存在であるのだが、
命の発生源が植物となると、区切りがあやふやになる。

スーパーで買ってきて、
適当に使って青いところが残った長ネギは、
水を含ませた綿なんかで切り口を包んでおいとくと、
青いところが伸びたり、根が出たりする。
もっといえば、適当なところでまっぷたつにしても、
腐葉土に突っ込んでおけばそれぞれが育っちゃったりするのだ。
ということは、元はひとつの命だったものが、
二つや三つなんかに増えたりする。

輪廻的な繋がりでいうと、
命と生体は一対一で組になってなきゃいけないと
理解しているのだが、
ネギの一片からでも命の無限増殖ができるようになり、
命のインフレが起きるのである。
これはつまり、お化けが出たい放題となる。

その結果、江戸のあたりだったら
皿を数えながら井戸に引きこもっている美女ぐらいしか
お化けがいなかったのが、
豆や大根までもがお化けになれるぐらいに
お化け相場が下がったという見方もできる。
余談ではあるが、人は死んで化けて出てきても、
生前の容姿によって扱われ方が変わる。
容姿端麗であれば、お化け。
残念な容姿であれば、化け物と呼ばれる。
人を見た目で判断しちゃいけないなんていうが、
死んでしまうと見た目で呼び方すら変わるのである。

さて、西洋カボチャの発祥の地で
ムーンウォーク菩薩として名を馳せている
マイケルジャクソンによるスリラーを
盲信した上で重要資料として活用すると、
他界したあとの肉体は、箱に詰められ埋められ、
ほどよく分解が進んだ頃に
雨後の竹の子のように地から這い出てきて
踊ったり歌ったりするのが米国流の死語の世界と理解している。

そうすると、カボチャがお化けとして出てくるには、
一度埋められて、出てこなければならない。
植物が地面から出てくるのは、一般的には発芽だ。
そうでなく、埋められたままの姿で、
若干傷んで出てくるのは、
生物分解が何らかの原因でできていないとでも
考えるのが妥当だろうか。
しかし、死んだ人が動くと考えているような御仁である。
生物分解なんて言葉を知っているかどうか怪しい。
分解されて肥料になるという道に失敗してのうらみか、
もしくは、東洋思想にかぶれて聞き齧った仏門の考えから、
輪廻の繋がりにのれず、
カボチャから故カボチャになってしまった、
その宿命を恨んで出てきたのが、
あの西洋のカボチャのお化けと考えることもできる。

浦安の夢の国じゃ、輪廻に対して
後ろめたい思いのある東洋かぶれのカボチャが
パレードしているということなのだろうか。

なかなか、奥が深い。